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5 犯罪とは?を巡る諸問題(その2)

 前節では,刑法学上の犯罪の定義について見たが,もちろん,これが犯罪の絶対的な定義というわけではない。先にも書いたように,定義の仕方にはいろいろある。つまり,犯罪の定義には別バージョンがある。

 例えば,デュルケムは社会分業論で,犯罪を

「ある行動はそれが集合意識の強力な確定的な諸状態を冒涜するとき犯罪的である」(デュルケム E. 井伊玄太郎(訳) 1989 社会分業論 講談社,Dulkeim,E. 1893 De la division du travail social.)

 と定義している。平たく言えば,集団の中で大勢の人が常識だと思っている,そういうものを壊そうとする行為を犯罪ということになる。
 犯罪はあくまでも実体のない,構成概念なので,定義の仕方によって,何が犯罪であるかはいくらでも変更可能である。

「どのような行動が犯罪であり非行であるかは,その行動が行われている社会によって定められる」(大江篤志 1984 社会と犯罪 石田幸平・武井槇次(編) 犯罪心理学 東海大学出版会 85-102.)

 国によって犯罪を定める法律は違うし,時代によっても何を犯罪とするかは違う。ある社会においては犯罪であったものが別の社会においては犯罪ではなくなることもあれば,過去には犯罪として処罰されなかったものが現在は処罰されるといったことも頻繁に生じる。

 我が国で1951年に覚せい剤取締法が制定されるまで,覚せい剤が合法だったことはご存じだろうか。戦前に「ヒロポン」という商品名で販売され,戦後も薬局で一般に売られて販売されていた時代がある。タクシー運転手や深夜勤務の作業員が好んで愛用していたという。

 結局のところ,犯罪は,何か絶対的な理由があってその行為が犯罪とされているわけではない。犯罪というものは,ある社会でそれが犯罪とされているから,犯罪となる,それだけである。こういった考え方は腑に落ちないだろうか。それでは,なぜ人を殺すことが犯罪になるのだろうかを考えてみよう。

 花子:「なぜ人を殺したら犯罪になるのかしら?」
 太郎:「それは,例えば,自分が殺されたら嫌だろう。だから,されないように犯罪として取り締まるんだよ」
 花子:「だったら,自分が殺されてもいいっていったら,殺してもいいの?」

 自分がされたら嫌だから、人にもしないし、犯罪として取り締まる、というのはある程度の説得力があるが、それならば、相手からやってよいからといわれれば、それは犯罪にはならなくなるのかというと、そういう場合もあれば、そうでない場合もある。

 また、一般的によく知られた例では,戦場では敵の兵隊を殺しても犯罪にならない。明治時代の初めまでは仇討をして人を殺すことは日本では犯罪ではなかった。

 もちろん、自分が殺されてしまうのは筆者としても御免こうむりたいところであるが、だからといって、なぜ人を殺していけないか、ということの理由を理屈で考え始めると回答はでてこない。

 人を殺すという行為を,犯罪にするかしないかは,社会状況によって、都合良く切り分けられている。 
 もっと簡単に、人殺しは倫理的に,道徳的に悪いのだ,と言ってしまうというやりかたもあるが、これは,「人を殺すこと=悪いこと=犯罪」という定義と本質的には変わらない。

 デュルケム(E.Durkheim)は同じく社会分業論で,「われわれは,或る行為が犯罪であるからそれを非難するのではなく,それは,われわれがそれを非難するから犯罪なのである」と述べている。逆説的なように聞こえるが,先に見た刑法上の定義がまさにそうである。犯罪というものが,最初から確として存在しており,だからそれが犯罪なんだ,という風になっているわけではなく,法律で決められたものを犯罪と呼びましょうと言っているわけなのだから。
 このように犯罪を社会との関係性で捉え,定義する考え方は,犯罪学ではラベリング理論と呼ばれている。


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